江戸相撲をシミュレーションするために、まず現代相撲との違いを見ていきましょう。ここでは主に制度上の違いをみていきます。
1.勝負結果
ななこ江戸時代には引き分けがあったって聞いたことあるけど・・・



そうじゃね、江戸時代には勝ち、負け、休み以外に、引き分けというのがあったんじゃよ。
現代と江戸の相撲の勝負結果で一番大きな違いは、「引き分け」があることです。現代では「取り直し」や「水入り」になる相撲も「引き分け」になっていました。
1-1.引き分け
江戸相撲の引き分けには「水入り」、「痛み分け」、「預り」、「無勝負」の4種類があります。
1-1-1.水入り
両者が四つになって動きがなくなった場合、「水入り」の引き分けとなります。星取表では「×」と表示されます。昔は力士が大名に雇われていたため、大名同士の都合や、上位としての面子などで、敢えて水入りの引き分けを狙うこともあったようです。
現代でも、4分経っても動きが止まって勝負がつかないときに「水入り」となります。一旦中断して短時間の休憩後に、同じ体勢で取り直し。さらに勝負がつかないときは二番後に取り直し。それでも決着がつかないと、引き分けになりますが、幕内では1974年9月場所11日目の三重ノ海と二子岳との一番が最後となります。
1-1-2.痛み分け
片方の力士が取組中に負傷や病気の悪化などで、取り組みの継続が難しくなった場合、「痛み分け」の引き分けになります。戦前の星取表では、「水入り」と同じく「×」と表示されます。
現代では取組中の負傷であっても、継続できない場合は負傷した力士が不戦敗になります。ただ、両者が同時に負傷して両者とも相撲が取れない場合に、「痛み分け」になる可能性は残っています。
1-1-3.預り
際どい相撲などで物言いがついた場合、昔はビデオなどで確認することもできませんでした。そのため、協議しても勝敗の判断が付かないとき、「預り」の引き分けとしていました。星取表では「△」もしくは「ア」と表示されます。
現代では同体取り直しとなりますが、当時は大名の面子に配慮して、あえて勝敗を付けずに、「預り」になる場合もあったようです。
1-1-4.無勝負
昔は、際どい相撲で、行司がどちらの勝ちとも判断できない場合、行司の裁量で「無勝負」の引き分けとすることができました。星取表には「ム」と表示されます。
現代では、どんなに際どい相撲でも行司はどちらかに軍配をあげなければなりません。行司が軍配に迷う場面を時々みかけますが、本音では「無勝負」と言いたいところかもしれません。
1-2.休み
現代では、怪我や病気で出場できない力士が休場したときに「休み」となりますが、昔はそれ以外の「休み」も多かったようです。
まず、片方の力士が休場する場合は両者とも(休場しない力士も)「休み」扱いになっていました。現代では休んだ力士が不戦敗、相手方が不戦勝となります。
また、千秋楽(最終日)は基本的に、幕内力士が相撲を取らないことになっており、必然的に幕内力士の千秋楽は「休み」扱いになっていました。
さらに、体が大きくて見栄えは良いが、実際には相撲をほとんど取らない「看板(としての)力士」というものがあり、その場合、番付には載っていますが、ほとんど「休み」扱いになっています。
1-3.江戸時代の「成績の比較」
昔は10日制(実質千秋楽を除く9日)でしたので、「5勝4敗1休」という分かりやすい成績もあれば、「3勝1敗3休1分1預1無」などという、一見分かりにくい成績もあったため、「勝ち越しの定義」や「成績の比較」がとにかく難しいです。
参考になるのが、明治の後半や大正時代で、「引き分け」と「優勝制度」が共存していました。その時代には優勝を、「勝ち越し数=勝星数ー負星数」で判断していたため、江戸時代もこれを参照したいと思います。「引き分け」、「休み」は「0.5」ではなく、勝敗にカウントしません。昔の「休み」は本人事情でないこともあるので、現在のように一概に「負け」とはいえず、カウントしないのが妥当となります。
ちなみに、さきほどの「5勝4敗1休」は勝ち越し1、「3勝1敗3休1分1預1無」は勝ち越し2となり、後者の方が上の成績となります。
2.地位



昔は大関が番付の最高位だって聞いたことがあるけど・・・



そうじゃね、明治の中盤までは番付の最高位は大関で、大関の中で強い力士に、横綱の免状が与えられていたんじゃ。
2-1.横綱
2-1-1.現代の横綱制度
現代の相撲では、大関で2場所連続で優勝、もしくはそれに準ずる成績をあげた場合、審判部、日本相撲協会理事長、横綱審議委員会を経由して審議され、問題なければ「横綱昇進」となります。
ですので、大関で優勝もしくは準優勝した力士は勝ち数に関わらず、翌場所が「綱取りの場所」となります。翌場所、準優勝ぐらいまでであれば審議の対象になるので、終盤に優勝争いをしていれば、見ている方も「もしかしたら横綱になるかも」と注目します。常に優勝争いをできる力士が、横綱の実力として求められているのでしょう。
2-1-2.江戸時代の横綱制度
元々は大関の中で実力のある力士が、行司の総元締めを行っていた「吉田司家」により横綱の免許を与えられて、綱を締めて1人で土俵入りを披露することが許されていました。つまり番付上の地位と、横綱の免許は別ものでした。
2-1-3.江戸時代の「横綱相当」
江戸時代には、現在のような明確な昇進基準がなく、完全な実力主義でもなかったため、大関で何場所か好成績をあげていても、横綱免許を与えられない例が散見されます。
そこで、ここでは、実際に横綱になっていなくても、成績から判断して「横綱相当」とみなし、実際の実力を判断する指標を取り入れたいと思います。
現在の基準にならい、大関で2場所連続で優勝もしくは準優勝した場合、「横綱相当」とみなします。また、大関で準優勝以上の場合は、翌場所を「横綱相当に挑戦の場所」とみなして、注目していきます。
2-2.大関
2-2-1.現代の大関
現代の大関の昇進基準の原則は、以下の3つを満たすことです。
- 3場所連続で、三役以上
- 3場所連続で、2桁以上の勝利
- 3場所の合計が、33勝以上
実際にはそれほど厳密ではなく、以下のようなケースでも昇進することがあります。❶が一般的ですが、➋、➌の場合でも、3場所目の後半に、前に出る相撲で連勝していると、昇進ムードが出てきます。
- 三役で2桁 → 三役で2桁 → 関脇で2桁
- 平幕で優勝 → 小結で9勝 → 関脇で12勝以上の優勝争い
- 三役で9勝 → 三役で11勝 → 関脇で12勝以上の優勝争い
横綱が2場所で判断されるのに比べ、大関が過去3場所で判断されるのは、「波がある力士」よりも、「安定した成績をあげられる力士」が求められているからでしょう。
2-2-2.江戸時代の大関
江戸時代は、体が大きくて見栄えが良いが、実際には相撲を取らない「看板(としての)大関」がいました。一方で、実力で大関を張っていた力士もいるため、分けて考える必要があります。また、看板大関で入ったが、実力が認められて、前頭からやり直すというケースもあるので、ここでは実力相撲での大関を扱います。
特に「看板大関」と記載されているわけでもないので、区別は難しいですが、対戦相手や、休みの頻度、番付に載っていた場所数などで判断していきます。
2-2-3.江戸時代の「大関相当」
横綱同様、三役で好成績を上げても大関に上がっていないケースがあるため、「大関相当」という指標を取り入れます。
まず、「3場所の成績で判断」、「3場所とも三役」は現在の基準を踏襲しますが、勝ち星は、現代と以下の点が異なるため、33勝や2桁という基準が適用できません。
- 一場所の日数(現代:15日制、江戸:10日制や8日制)
- 勝負結果(現代:引き分けがない、江戸:引き分けがある)
そこで、勝ち星ではなく、勝率を一つの目安と考えます。1場所15日の場合、3場所の勝率は以下のような目安となります。
- 7割5分なら33.75勝
- 7割なら31.5勝
- 6割5分なら29.75勝
平成以降の大関は最低でも32勝なので、昔に当てはめると、引き分け・休みを除く勝率で7割以上は欲しいところです。
また、2桁勝利は10勝5敗なので勝率でいうと、6割6分7厘です。
これを10日制(実質9日)でみると、ちょうど6勝3敗(勝率6割6分7厘・勝ち越し3)になりますので、勝ち越し数でみて3勝以上が基準でしょうか。
さらに8日制で見た場合、6勝2敗(勝率7割5分・勝ち越し4)と5勝3敗(勝率6割2分・勝ち越し2)の間になりますので、少し厳しめですが、間を取って勝ち越し数で3勝以上ぐらいでしょうか。
よって、「大関相当」に昇進の基準を以下の通りとします。
- 3場所連続で、三役以上
- 3場所連続で、勝ち越数3以上
- 引き分け・休みを除く3場所の勝率が7割以上
ですので、三役で2場所連続、勝ち越数3以上の場合、翌場所が大関相当挑戦の場所となります。
2-3.江戸時代の関脇以下
2-3-1.上位陣の扱い
現代では「上位陣が安泰」という場合の「上位陣」は、横綱・大関のことをさします。一方、江戸時代の横綱・大関は以下のとおりになります。
- 最高位が大関で、その中から横綱も兼ねる力士がいる
- 原則的に東西合わせて大関が2名
- 看板大関のように、相撲を取らない力士もいる
そう考えると、実力としての上位陣は0~2名しかいません。そこで、三役力士も上位陣とみなすことにします。ただし、昇進条件を突破した、今の横綱・大関ほどの地位ではなく、ランキング上位程度の扱いです。(それを補完するため、「横綱相当」、「大関相当」という実力を示す指標を別途用います)
現代の相撲では横綱・大関が少ない場合に、関脇・小結にも上位の役割(優勝争い)を求めたり注目したりします。江戸の関脇・小結を上位陣とみなしたので、前頭上位(1,2枚目)ぐらいを、現在の関脇・小結とみて良いかもしれません。
2-3-2.初登場力士の扱い
現代の相撲では、基本的に前相撲を取ってから、翌場所に序ノ口として番付に載り、例外として、アマで実績を上げれば幕下や三段目の付け出しから始めます。
これを江戸にあてはめると、二枚目からのスタートが基本となるはずですが、実際にはいきなり、三役や前頭から始まるケースがかなり多いです。このうち、実際に相撲を取らず、番付を埋める役割である「看板(としての)力士」がいたため、その場合は数場所ぐらい全休して、すぐに番付からいなくなるので、別物として扱えばよいでしょう。
それ以外は、恐らく現代の「幕下付け出し」に近い扱いのようです。他での実績や評判などにより、いきなり三役で登場しますが、明確な基準があるわけではないので、実際に相撲を取ってみて、通用する場合と、全く通じない場合があります。
ですので、幕内でいきなり初土俵の力士は、一場所見てみないと、その地位に見合う力士かどうかは判断できません。
3.表彰制度



優勝制度っていつ頃からあったのかな?



制度になったの自体は意外と遅く、明治末期になってからじゃよ。
3-1.優勝
優勝制度は、1909年(明治42年)6月場所より導入されました。引き分けのあった時代にはそれをカウントせず、勝ち星ではなく、勝ち越し数が一番多い力士を優勝としていました。
- 例)1909年(明治42年)6月場所で、西大関・太刀山(8勝2敗・勝ち越し数6)ではなく、東前頭7・高見山(7勝3分・勝ち越し数7)が優勝。
また、1947年(昭和22年)6月場所で優勝決定戦が導入されるまでは、同じ勝ち越し数の場合、番付上位が優勝となっていました。
- 例)1916年(大正5年)1月場所で、東大関・西ノ海(8勝1分1休・勝ち越し数8)が、東前頭13・源治山(9勝1敗・勝ち越し数8)と勝ち越し数で並ぶが、番付上位の西の海が優勝。
江戸時代に当てはめると、勝ち越し数が最も多く、番付上位の力士が優勝相当となりますが、厳密には取り直しなどがあるため、多少の補正が必要です。
3-2.三賞
三賞の制度自体は比較的新しく、1947年(昭和22年)11月場所より、三賞選考委員会(審判部や記者クラブのメンバーから構成)によって、殊勲・敢闘・技能の三賞が選考されました。
3-2-1.殊勲賞
原則としては以下の基準となります。
- 勝ち越している(前提条件)
- 横綱・大関から白星を挙げている
- 優勝力士から白星を挙げている
横綱・大関の出場力士が少ないときに、好成績の三役から挙げた白星が加味されることもあります。
敢えて江戸時代に当てはめてみると、
- 勝ち越し数が0以上(前提条件)
- 三役力士から白星を挙げている
- 優勝力士から白星を挙げている
前頭1-2枚目を現在の三役クラスとみなすと、そこからの白星も多少考慮して、「殊勲賞相当」を判断していきます。(私の独断です)
3-2-2.敢闘賞
文字通りに考えれば、敢闘精神旺盛な力士に与えられるとなりますが、実際には以下のようなケースとなります。
- 勝ち越している(前提条件)
- 終盤まで優勝争いに絡んだ
- 新入幕で2桁以上あげた
- 高齢でありながら、2桁以上あげた
これも敢えて江戸時代に当てはめてみると、以下の条件を満たす場合に、「敢闘賞相当」として判断していきます。(私の独断です)
- 勝ち越し数が0以上(前提条件)
- 終盤まで優勝争いに絡んだ
- 新入幕で勝率2/3以上(15日制の10勝相当) → 勝ち越数3以上
- 高齢でありながら、2桁以上あげた
勝率2/3以上を勝ち越し数3以上に換算する考え方は、大関昇進条件の1場所の成績を考えた場合と同様です。
3-3-3.技能賞
技能が特に優秀な力士に与えられ、以前は決まり手の数が豊富な力士や、奇手を繰り出す力士が受賞する傾向が強かったです。ただし、対象者が限られてしまうため、最近では活躍した力士の勝った理由から判断して、おっつけや押しの技術などを技能とみなすことも多いです。
正直これが一番、江戸時代に当てはめるのが難しいです。詳細な相撲内容が分からないため、資料などから技能派だったといわれた力士が、好成績(勝ち越し数0以上)の場合に、「技能賞相当」とするしかないでしょう。
4.シミュレーションするにあたって
4-1.どの場所から始めるか
元々は優勝制度が定まり、相撲雑誌も普及し始めた、「明治後半から大正辺り」を考えていました。図書館に全て保存されているわけではありませんが、実際に雑誌を読むと、どの力士に注目・期待しているかなど当時の雰囲気がよく分かります。
どうせなら、なるべく古い時代から始めたいので、さらに調べてみると、新聞記事では明治10年代から取り上げ始めていました。これで、取り組み内容や雰囲気も分かると思ったのですが、現代のように優勝争いや上位陣の成績を含めた、幕内の全成績を取り上げているわけではなく、熱戦だった取り組みを何番か取り上げているだけなので、情報としては不十分でした。
さらに調べていくと、誰と誰が何日目に対戦したかだけなら、1761年(宝暦11年)11月場所から残っていました。「不明」で時々途切れており、連続して残っているのは1763年(宝暦13年)4月場所からとなります。
ただ、調べてみると以下のように、現代と違う点が多く、当時のルールを理解しつつ、現代の視点をどう適用できるのかを考えるのが非常に難しかったです
- 突然番付に表れてすぐに消える力士がいる
- 上位陣が休みばかりである(おそらく看板大関)
- 成績通りに番付が上下していない
- 8日制で前頭も5枚ぐらいしかない
- 幕内と二段目(現在の十両)の対戦が多い
とはいえ、有名な谷風、小野川、雷電あたりからは押さえておきたかったので、谷風が活躍する少し前に、「看板大関でありながら、初めて実力もあった大関・釈迦ヶ嶽」が初登場する1770年(明和7年)11月場所から始めることにしました。
4-2.身長・体重について
現代の力士は、初土俵の時と、幕内上位に上がった時では、身長はあまり変わりませんが、体重が大きく増えている場合があります。ただ、江戸時代の場合、活躍したころの身長・体重しか基本的には分かりません。だから、上位に上がる前でも、その身長・体重としてシミュレーションしていくことにします。
江戸時代の場合は、元々体の大きな人が力士になっている場合が多いので、体重の変化もそれほど大きくなかったと考えれば、大きな齟齬はないかもしれません。
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